海外から日本を見つめる
「“MADE IN JAPAN”の刻印を見ると、孤軍奮闘する研究現場で励まされますね」と話す川村俊輔さんは、バーゼルのスイス連邦工科大学で脊椎動物の骨代謝を研究中だ。一見変化のなさそうな硬い骨も、破骨細胞と骨芽細胞によって常に代謝されている。マウスを使って前駆細胞から破骨細胞に分化するメカニズムを解明するこの研究は、骨粗鬆症やリウマチ、ガンの骨転移など臨床医学への応用に結びつくと期待される。このような研究には極めて性能の高い顕微鏡が欠かせないが、ヨーロッパ全土でも数台しかない。その顕微鏡こそ、日本の光学機器メーカーのニコン製だ。
「日本は『ものづくり』などハード面は本当に優れていると実感します。しかし、プログラミングなどソフト面は弱いと思うのです。日本の学校でのプログラミング教育は出遅れている」と海外の現場から日本の弱点を指摘する。現在の研究現場ではほとんどの研究者が解析作業などに必要なソフトウェアを研究者自らで作成しており、そのような研究開発環境が日本には少ないと話す。
言葉は文化そのもの
バーゼルには、妻の華代子さんとお子さんを連れて留学した。研究に没頭していたある日、スイス国内法が「2020年1月以降、EU圏外からの就労者同伴家族の公用語学習レベルが一定に達しない場合、同伴家族の居住許可が認められなくなる」と改正されたことを知った。当時、華代子さんはほとんどドイツ語を話せなかったため、本格的に語学を学ぶ必要が生じた。それまで家事や育児はほとんどを華代子さんが担っており、華代子さんの学習時間を確保するために俊輔さんも積極的に育児に関わることになった。実験室でなくてもできる解析作業などは自宅で行うことにした。そんな生活を続けているうち、あることに気がついた。
突然の法律改正は青天の霹靂ではあったが、少し見方を変えれば、この改正はスイスが自国の文化を守るために必要だったのではないだろうか。言語は文化の中心的な存在だ。スイスで暮らす外国人が、スイスの公用語を使わずに英語で暮らし続けて、本当にスイスを知ることができるのだろうか。また、ドイツ語の学習に取り組むことで、華代子さん自身も帰国後の活動の選択肢を広げることになるはずだ、と考えるようになった。華代子さんは日本では大手乳業メーカーで母親を対象とした調乳指導や栄養指導を行なっていたが、外国人を相手に指導するとき、やはり言葉は精神的な障壁になってしまう。日本に滞在している外国人とコミュニケーションを取るときに、相手の母国語を理解しよう、一言でも使ってみようとする姿勢は、きっとその障壁を取り除くだろう。
海外の生活が変えたもの
現在、二人のお子さんの育児に取り組む俊輔さんは「これまで、毎日どんなときも研究のことだけ考えていました。こちらの人々は家族と過ごす時間をとても大切にする働き方をしています。自分も毎日の生活だけでなく、長期休暇などを利用して家族との時間を十分に取るようになりました」と楽しそうに話し、お子さんの成長を糧にしながら、研究にも真剣に向き合う。
研究生活について俊輔さんは「取り敢えず、海外の環境に飛び込んで頑張ってみる、ということがとても大切だと思うのです。頑張ったら経験になる。一生懸命努力すれば、きっと何かが起こるはずです」と、試行錯誤しながらの人生設計も一つの方法だと話す。海外の研究環境は決して安泰ではなく、実力主義の厳しい環境だが、「試行錯誤しながら、駄目だったら駄目で、それも一つの成果なのではないでしょうか」と言う。実験を計画・実行する上でも、「どう考えてもうまくいかないだろうと思えることでも、海外の人はやってみるんですよね。うまくいかないことを確かめるのです。そういうことをする人たちもいるんだということを知るだけでも、留学の価値はあると思うのです」。
ケイロン・イニシアチブの資金は華代子さんのドイツ語学習のために充当し、今では生活の場面で自由にドイツ語を使いこなしている。華代子さんのドイツ語習得が川村さん一家にもたらしたものは、単に言葉だけでなく、文化に対する考え方や家族観の変化など、想定以上の成果があったようだ。
記事執筆:
法政大学 経済学部 物理学・科学ジャーナリズム研究室 藤田 貢崇
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